いちばんのあなたに …前編

 

雪も降らず、ただ寒さだけが日に日に増す――冬の初め。
あの事件もまだ記憶に新しく、まるで昨日のことのように思い出せる、12月に入ってまだ間もない頃。
非現実的なその日常から解放され、悠々と生活しているはずの少年は――土村十史は――今、非常に煩っていた。
代わり映えのしない、地味でほどよく汚い自室。十史は床にあぐらをかきながら、ちらりと上目遣いに見あげてみた。
――ベッドの上でちょこんと可愛らしく座っている、女の子を。
十史の視線に気づくと、にっこり微笑んで首を傾げてみせた。
「なあに? としくん」
「……いや、なあに? じゃなくて……」
それはこっちの台詞だと言いたかった。頼むから時間。早く過ぎてくれと思った。けれど時計の短針は未だ10の数字を指し、空は明るい。
――ま、間がもたない……!
「ねえとしくん。何して遊ぶ? エリちゃん人形ごっこ? 着せ替えしよっか」
「絶対にイ……」
イヤだ。そんなもんをどこの高校2年生がやるっていうんだ。妙なシュミでも持ってない限り。普段の彼ならそう叫んでツッコんで、走って逃げるなり追い出すなりしていただろうが。
相手は年端もいかない女の子なのだ。大きな瞳をキラキラとさせて、まるで兄のように自分を慕っている、たとえ小さいといえどもやはり女の子なのだ。既に自分には決めた人がいたとしても、ぞんざいに扱っていいわけがない。
「ま……麻衣里ちゃん、お外、行こっか……」
「うん! おそとおそと! としくんとおそと〜!」
キャッキャとはしゃいで自分の袖を引っ張る女の子を、麻衣里を見ながら、十史はこっそりとため息をついて呟いた。
「有香ちゃーん……」

 



 

後ろを振り返って、暫らく何もない場所を見つめた。
脇を通り過ぎていく人間たちが不思議そうに、または別の理由で彼女を見るが、当人はいたって気にしない。
「どうかされましたか〜?」
すぐ傍で間伸びした声がして、有香はやっと視線を逸らした。横で目をきょとんとさせて自分を見上げている季節に、僅かだけ目元をほころばせる。
「ちょっと名前を……呼ばれたような気がして」
「わぁ、テレパシーですか? 素敵ですねぇ」
無邪気に喜ぶ季節を伴って、有香はまた歩き始めた。駅前の大通り。日曜日ということもあって人通りは並ではない。視力の弱い季節の手を握り、有香は先導して歩く。
「でも本当にすみません〜。お休みの日に付き合っていただいてしまって〜」
「そんなこと」
有香はちょっとした買い物で街に出たのだが、その途中、人通りの多い道で危なっかしくうろうろとしていた季節を見つけて、慌てて「保護」したのだった。誰があんな、すぐにでも踏まれてしまいそうな状態の彼女を放っておけるものか、と有香は首を左右に振った。
「あとでお礼に何か奢らせてください〜。クレープでもいかがですかー」
クレープと聞いて、文化祭を思い出した。結局クレープは十史に奢らせたのだ。しかし、特に指定もしなかったのに何故か有香の好みピッタリのものを買ってきたものだから、気味が悪くなった覚えがある。
あなた、やっぱり宇宙人なんじゃないの? とチョコバナナを手にして訊ねたら全力で否定していた。その慌てた顔が面白くて、思わず笑ってしまう。
「うふふ、やだ有香ちゃんったら。お幸せそうです〜」
ハッとして我にかえり、口元を押さえる。冷たい風がやけに頬に心地いい。体温が上昇していくような気がする。赤くなっているのが、見えなくてもわかる。
「羨ましいですねぇ。いいですねぇ」
「な、なに言ってるんですか……別に、私は」
別に、私は。そこまで言って、何をどう否定するのかに困った。
そう、否定するものなんて何もない。幸せだ。
10年ぶりに会えた想い人。つい最近からは――こいびと。
あの手に抱きしめられる感触を知っている。匂いも。表情も、声も、仕草も。
けれどこの人だって――季節だって、それに惹かれていた一人だ。有香は覚えている。文化祭の後日、そっと、本当は好きになりかけていたんだと、笑って教えてくれた季節の表情が少しだけ淋しそうだったのを覚えている。
会って間もない彼女がそうなのだ。それ以上に「幼なじみ」は――。
「あれー? 有香ちゃん、季節せんぱーい!」
声をかけられ、また立ち止る。迷惑そうに二人を避けて歩く通行人の合間に、ショートカットの少女を見とめた。二人に向かって手を振りつつ、駆け寄ってくる。
「あー、市味ちゃんですー! 奇遇ですねえ」
「……本当に」
噂をすれば何とやら、である。有香は平静を装って、あっという間に目の前へと走ってきた市味と対面した。
「二人で買い物?」
「まあ……そんなとこ」
有香が答えると、市味はきょろきょろと辺りを見回した。
「あれ? あのバカはどこにいるの?」
「バカさん? 何人のお知りあいですか?」
心から不思議そうな季節の疑問にうな垂れ、有香は顔を片手で覆った。そのまま市味の質問に答える。
「なんで、そこに十史くんが出てくるの」
「えーだってほら、日曜デートって基本でしょ?」
「ああ! そうだったんですかー! わたしおジャマしちゃいました?」
「違うっ!!」
叫んでも、一旦盛り上がった二人には通じなかった。「有香ちゃんオクテだからー」だとか「こう人が多いと遊園地にも行けやしないし」だとか、「ウィンドウショッピングで手を繋いでみたりー」だとか、市味と季節は妙に嬉しそうに案を出し合う。
有香ははあ、と大きくため息を吐いてみせた。
「……あのね、十史くんとは別に、連絡なんて取り合ってなくて」
「えー!?」
「え〜」
途端、非難がましく二人の声が重なって、有香は次の言葉を飲み込んだ。
「そんなの駄目だよ。全然ダメダメだよー!」
「そうですよ〜。二人はいつも次のデートの日程を考えてないと〜」
「なんでそんな面倒くさ……」
言いかけた有香の口を塞いで、有無を言わさず市味は人通りから脇へと逸れた。噴水の縁まで来て、有香を腰掛けさせる。季節もそれについてきて、精一杯顔を小難しそうにしかめてみせた。
「今は学校があるからいいけどさ、卒業しちゃったらお互いに遠いとこに離れちゃうかもしれないんだよ? その為にも今から連絡手段っていうのは確保しておかなくちゃ!」
「そうです〜」
「で、でも……」
市味は怖い顔をぐっと有香に近づける。そして指先を鼻先につきつけた。
「でもじゃないよ。どうせその調子じゃ、正式なデートだってしてないんでしょ」
「決まってるじゃない」
「キスもしてないんですか〜?」
「決ま……」
いや。違う。それはした。しかも自分から。
と反論しかけて、やめた。言ったら言ったで、「順番が違う」などと更に責めたてられることは皆目見当がついたからだ。
「ま、あいつに限って浮気ってことはないだろうけど……誰にでも優しいから、勘違いした他の女の子が十史を取っちゃうかもしれないよー」
その言葉に少しだけ反応した有香は、上目遣いに市味を見あげた。
「……それは脅し?」
「事実」
憮然と腕を組む市味としばらく見つめあっていると、季節が声をあげた。
「事実でした〜」
「……でした?」
有香と市味は同時に季節が指差す方向を向いた。そしてその目に飛び込んできた光景に驚いて、どちらとも動きを止めた。
噴水の噴き上げる水の向こう側に、人影が二つ見えた。一つは明らかに十史だった。しかしもう一人、やけに小柄な影には見覚えがなかった。
有香と市味が目を凝らしていると、季節がその二人の袖をちょいちょいと引っ張る。
「ねえねえ、もうすぐ噴水がお休みしますよ〜?」
噴水がお休み。それは、噴き上げる水が止まるということだろう。
つまり、向こうがこちらに気づく可能性が高くなるということで……。
「やばっ、隠れよう有香ちゃん!」
「ちょ、ちょっ……」
座っていた有香を無理矢理引きずり下ろし、噴水の陰へと身をひそめる。周りは不審そうにコソコソと隠れる3人を眺めているが、恥じらいを覚えられるほど余裕はなかった。
やがて噴水が止まる。その向こう側の、こちらへ背を向けた二人がよく見えるようになる。十史の隣に座り、しきりに話しかけているのが少女だということがわかって、有香は心臓が嫌な感じに鳴るのがわかった。
「どなたさんでしょう〜? 十史くんのお知りあいですか〜?」
「さあ……隠し子なんじゃないの」
「有香ちゃん……」
よくこの状況でそんなこと言えるね、といった様子の市味に、有香は肩を僅かにすくめて見せた。そして季節に囁く。
「季節先輩、何て言ってるか聞こえますか?」
季節は言われて、目を閉じて耳を澄ませていたが、やがてにこにこと頷いた。
「はい〜大分遠いから、ちょっとだけですけど。通訳しましょうか」
有香が頷くと、季節はまた目を閉じた。口を開く。
「えーと……『君の瞳は1000万ボルト』
それと同時に市味が頭を噴水の縁で打った。季節は声色を変えて続ける。
『僕は君を守る為にこの世に生まれてきたんだ、ジュテーム。ボンソワール、カラムーチョ、パパラッチ』
「……季節先輩? 十史くんがそれを言ってるんですか?」
「いいえ〜。あの女の子が」
「女の子が!!?」
市味が叫んだ瞬間、十史と少女が立ちあがったので、3人は益々身を低くした。しかし十史たちはこちらに気づいた様子もなく、そのままどこかへと立ち去ろうとする。
「お……追うよ有香ちゃん! 先輩!」
「……いいわよ」
すっくと立ち上がる市味に賛同して立ち上がる有香。季節は妙に嬉しそうに「うふふ〜」と口元を両手で覆う。

家で時間を過ごすことが難しそうだったので、勢いで街までやってきてしまったが、失敗だったかもしれない。と十史は今更ながらに思っていた。
麻衣里のテンションは余計にヒートアップし、取り留めのないものでも指を指してははしゃいでいる。服の裾をやたらと引っ張って催促するので、毎度腰が曲がって仕方がない。
「としくん、どうしたの? 疲れたの?」
麻衣里が心配そうに顔を覗き込んでくる。十史は弱く首を横に振った。
「いや……それにしても、なんで急に来たりしたんだ? 冬休みにでもゆっくり遊びに来れば良かったのにさ」
本当は冬休みにだって来られても困るのだが、今回麻衣里が来たタイミングは妙すぎた。麻衣里が住んでいる場所はこの地方から大分離れたところで、簡単に遊びに来られるような距離ではない。麻衣里だってまだ小学生なのに、今日は日曜日だ。明日からはまた学校があるだろうに、まるで無理をして遊びにきているようにしか見えない。
麻衣里は十史に訊ねられて、ふっと声のトーンを落とした。「うん……」と曖昧に返事をしたが、それ以上は何も言わない。だから十史もそれ以上訊ねることができずに、黙って歩いていたのだが、
「ね、としくん?」
そんな甘えたような麻衣里の声に、彼女を見た。
きらきらと輝く瞳が、訴えかけるように見えないビームを送ってきている。十史は怯んだ。嫌な予感が、した。
「麻衣里ととしくんは、今日だけは恋人同士ね?」
「は……はあ!?」
「そしてこれからはデートなの! まずは喫茶店でお茶だよ?」
なんでそうなるんだ!? と叫ばせてくれるほど、余裕は与えられなかった。
麻衣里はより強い力で十史の服の袖を引っ張り、駆け出した。

「……で、本当は何て言ってたんですか」
「えーとですね、『としくん、麻衣里おなかすいたー』ですー」
「麻衣里?」
季節の言葉に市味が反応し、そのまま何かを考えるように黙った。有香は腕時計を見て眉をひそめる。
「まだ11時過ぎなんだけど」
「成長期さんなんですよーきっと」
「違う。きっと何か他に目的があって……なに」
にやにやと笑う市味と季節を不審に思って、有香は立ち止まる。
「え〜だって〜」
「心中穏やかじゃないなぁとか思って〜」
「……二人とも、何? 私をからかいに来たの?」
有香はそう言って睨みつけたが、市味は憤然と腰に手を当てる。
「あ、ひどいなぁ。あたしは有香ちゃんが心配でしょうがないのに。ねえ先輩」
「ね〜」
と、市味と季節は顔を見合わせ、有香を追い越して十史と麻衣里を尾行する。その姿が妙に楽しそうで、有香は目を細めた。
「……要は暇なんじゃない……」
 

十史と麻衣里が喫茶店に入るのを見て、3人も続いて店内へと入る。有香は「しーっ」と唇に指を当てる季節を見て当惑する案内嬢に「構わないでください」と手を振り、席に案内させた。
十史と麻衣里の席は姿が明視できる距離にある。窓際の二人席に座り、床に届かない足をぶらぶらとさせている麻衣里を見て、市味が「あ」と声をあげた。
「思い出した。麻衣里ちゃんだ」
「誰?」
市味は視線をあさっての方向へと向ける。
「うーん……一応、十史のイトコ」
「イトコさんがいらっしゃったんですか〜」
目をまるくする季節。有香はその市味の微妙な表情が気になった。
「……なんか、あるの?」
「えー別に……あたしはちょっと苦手かなーなんて」
「以前にお会いしたことがあるんですか?」
市味は運ばれてきたレモンティーを一口飲んで、十史と麻衣里の方を眺めた。
「なんていうか……やけにおマセっていうか……『第三親等以上は結婚できるんだよ』っていう論法を持ち出してくるんだけど」
「な」
固まった有香の横で、季節は嬉しそうに手を合わせた。
「早いうちから結婚願望をお持ちなんですね〜。将来が楽しみです〜」
「た、楽しみにしちゃダメでしょ」
そんな市味と季節のやり取りにも反応しない有香は、じっと十史と麻衣里の会話に耳を澄ませていた。
「……ねえねえとしくん。次はどこに行く? やっぱり公園がいいかなぁ」
「いや、それはどうかと」
十史の口元は明らかに引き攣っているのだが、有香には見えなかった。じっと無表情で二人を眺める様を、市味と季節は何も言わず見守っている。
「ダメだよとしくん。麻衣里ととしくんは恋人同士なんだから、恋人らしくデートしなくちゃ。デートに公園は憑き物だよ」
「付き物、な。付き物」
すかさず欠かさず、律儀にツッコミを入れる十史。「恋人」というところをまず一番最初に注意するべきじゃないの? と有香は苛立ったが、十史は諦めたようにため息を吐いている。「恋人」という設定は既に何度も強調されている部分らしい。
「麻衣里ちゃん……あのさ、君はまだ10歳だろ? なのに」
「違うよとしくん。9歳だよ」
「……」
閉口する十史。明らかに麻衣里の方が優勢だった。有香は唇を噛む。
「情けない……あんな子どもに誘惑されて」
「誘惑?」
どこが。という市味の視線にも気づかない。季節はうんうんと頷いた。
「悩ましいですねぇ〜」
「ええ!?」
麻衣里は両肘を机につき、組んだ手の上に顎を乗せて十史を見あげる。
「としくん。恋に年なんか関係ないんだよ」
「いや俺は恋なんか」
と、十史はそこまで言いかけて口を僅かに開いたまま停止した。そして少しずつ赤くなる。それを見とめた有香は眉を跳ね上げた。
「し、してなくもないけど、その相手は君じゃな」
「わぁい、嬉しいよとしくん! やっぱり麻衣里たちはベストカップルだね!」
「なんでそうなる!?」
ぎゅっと手を握り合う二人。に有香には見えた。もう彼女の瞳の色は剣呑以外の何者でもない。
市味はそんな様子の有香を横目に、季節に囁く。
「このあと有香ちゃん、どうすると思います?」
「え〜。

1.殴りこみ
2.回し蹴り
3.必殺技(AAABBB←←→→↓↑A)

のどれかですかね〜。もちろん対象は全部十史くんです〜」
「個人的には3を希望……う、うわ、有香ちゃん?」

ガタン、と席を立つ有香に体をすくませる市味と、「まだ早いですよ〜もっと泳がせましょ〜」と止めようとしているのかしていないのかが、いまいちわからない季節。
「離してください季節先輩。あいつに一発喰らわせないと気が済まないの」
「え〜それじゃ、あっと言う間にハッピーエンドじゃないですかぁ〜」
「……それってハッピーになれるのかなぁ……?」
市味が思わず呟くが、ふと視線をはしらせて「あっ」と叫んだ。
「ちょ、ちょっと! あいつらもう店を出るみたいだよ!」
有香は抵抗をやめて身をひそめる。季節は首を傾げた。
「せわしないですね〜。次はどこに行かれるんでしょう〜」
「ウィンドウショッピングね。そしてブライダル系のとこに行って「パパ〜私の結婚式アレ買いなよ」ね」
「……有香ちゃん? 有香ちゃん?」
市味の呼びかけにも既に反応しなくなった有香は二人が去ったのを見て立ち上がり、低い声を漏らした。
「……覚悟してなさい、十史くん」
「やだ〜、怖いですねぇ〜」
と言いながらも一番楽しそうなのは季節で、市味は少しだけ、十史に憐れみの感情を抱いた。

   

尾行は午後も続いた。
季節の用事を済ませつつ、実に様々な店に入っては出てくる十史と麻衣里を追跡する。
タイミングを計っては奇襲を考える有香だったが、この休日の午後の人通りは午前よりも凄まじく、なかなか自由に動くことができずに苦戦していた。
「……早く公園でもなんでも行ってよ。そうすれば草むらから長いものでどうすることもできるのに」
「な、長いものってなに? 長いものって」
「うふふ〜やですよー。アレに決まってるじゃないですか〜」
何故か赤面して口元を覆う季節に、市味はつられて赤面し、有香はそれを完全に無視することに決めた。
「でも、すごく楽しそうですよ。まるで本当の兄妹みたいじゃないですかー」
季節が感想を漏らせば、市味も「まあねえ……」と曖昧に頷く。
麻衣里がくっつくのを十史は明らかに嫌がってはいるが、隙を見て逃げ出そうとはせず、おとなしく麻衣里に付き合っている。歩幅や速度も十史の方が完全に勝っているのに、麻衣里に合わせて歩いてやっているのだ。人込みが激しければ庇ってやるし、ほどよく休憩も取っている。
「まあ、あれは十史が十史である理由であって……別にそんな、特別扱いってわけじゃあ、ないと思うんだけど……ねえ? 有香ちゃん」
「なんで私に訊くの」
市味のフォローを有香はぞんざいに跳ね除けたが、それでも心臓の嫌な鼓動は収まらない。
「でも〜もう4時ですし。フィニッシュに向かわれるんじゃないですか〜?」
「フィ……」
「フィニッシュ?」
有香と市味が意味をはかりかねて顔を見合わせると、近くの公園の時計台が4時を告げる鐘を鳴らした。

十史と麻衣里はそのまま時計台のある公園へと入っていき、3人はそれを追った。
常緑樹林以外は冬らしく、葉が散っている。身を隠す草むらは多いものの、日が傾くに連れて寒さが増してきている。
「先輩、大丈夫なんですか? 暗くなったら……」
市味の問いに季節は何度も頷いた。
「全然平気ですよ〜。いざとなったらお迎えに来てもらいますし。こんなに面白いこと滅多にないですし〜」
「やっぱ楽しんでるんだ……」
そんな感想を呆れ半分に漏らした瞬間、はた、と市味は足を止めた。不思議に思って有香が振り返る。市味はある方向を向いたまま静止していた。
「市味ちゃん?」
「あ……あ、あたし! ちょっと後でまた!!」
「え〜?」
市味はその場でくるりと踵を返し、慌てたように走って行ってしまった。その足は速く、とても追いつこうなどとは考えられない。有香と季節は呆然とその場で市味を見送った。
「……市味ちゃん、何か見たようだったけど」
「それは俺のことかなー?」
突如、耳元で聞こえた声に有香は鳥肌を立ててその場から飛び退いた。季節が「わぁ」と嬉しそうな声を出す。有香は上目遣いにヒラヒラと手を振るその男を睨みつけた。
「高橋くんです〜。奇遇ですねえこんな場所で〜」
「いやーホントに奇遇だよねえこんな場所で」
「……何しに来たの」
有香の冷たい問いかけに秀はわざとらしく泣き真似をしてみせた。
「ひどいや。俺はただこのクソ寒い夕方を一人でブルーに満喫しようと思っただけなのに。公園の公の字は公衆便所の公じゃなかったの?」
「その辺りが変態だって言うのよ」
「うわー有香ちゃん、ビシバシひどいです〜」
季節は喜び、「でも」と首を傾げた。
「どうして市味ちゃんは、どこかに行かれてしまったんでしょう〜?」
「公園でこんなのに遭遇したら叫んで逃げたくなるのも当然じゃないの」
「あっはっはっは! クールな美女っていいねえ、脳下垂体刺激されちゃうよねー!」
「最低」
一人で機嫌良く笑っていた秀だったが、そっぽを向く有香を見て少しだけ表情を和らげた。
「ま、それも仕方ないかな」
「……?」
有香が眉をひそめて秀を見上げた時には、既にいつもの表情に戻っていて、それ以上は追求できなかった。だから諦めて、それよりも……と有香は秀の向こう側を透かし見る。
「……見失ったじゃない。バカ」
「え? なになに? 誰かを尾行中だったりする? そしてその対象がもしかして十史くんだったりする?」
楽しそうに右手で額にひさしを作ってきょろきょろと見渡す秀。季節は「そうなんですよー」と両手を合わせた。秀を手招いて、屈んだ彼の耳元に何やら囁く。それを見た有香は必然的に嫌な予感がした。
そして。
「えー!! 十史くんが
幼女と不倫!!?」
「なんでそうなるの!!」
目を輝かせて喜ぶ秀の後ろ頭を容赦なく叩くが、効いた様子は全くない。ワクワクと体を揺り動かす秀は季節の手を取ってすぐさま歩き出した。
「いいねいいね! 双山さん、早速十史くんの弱みを握りに行こうじゃない!」
「はい〜」
スキップでもしそうな勢いで歩き始めた二人の背中を眺めた有香は、
「市味ちゃん……帰ってきて」
心から願った。

 

⇒⇒⇒後半へつづくです〜